下弦の月夜
普段より帰りが遅い日や疲れていそうな日は
駅まで君を迎えに行くことにしている
いつ呼ばれてもいいように
もちろん準備はしてるけど
今夜は、前者だった
午後11時半、時間通りに君と落ちあう
それから近くのコンビニに連れ込む
晩ごはんを食べ損ねた僕は、パンを買って
お酒が欲しいと言った君は、アイスを買った
やらないといけない仕事があるらしい
お酒じゃ、きっと睡眠薬にしかならないだろう
大人の買い食いは、なんとも良い罪悪感がある
夏のせいで溶け出したアイスの洗礼は
ギリギリで回避しつつ、ゆっくり歩いて帰る
不意に、君が後ろを確認するように振り返った
「どした?」
「誰も見てなかったら、ぴとってしようかと」
いつでもしてくれと思いながら
「別に、誰も見てないよ」
君は、おもむろに僕の左腕に触れた
この世界で一番愛しい声が、僕を呼ぶ
君だけに許した特別な名前で、僕を。
「うん?」
「今夜は月が綺麗ですね」
下弦の月は、本当に綺麗だった
「そうだね」
意味を理解していながら、返す言葉を逡巡して
「好きだなあ」
聞こえよがしに言ってみる
返事がないのは、わざとだろうけど
本当に聞こえてないのか不安になって
「あれ、聞こえなかった?」
呆気なく聞くと、
「聞こえてますよ」
僕を見上げて微笑む
僕から手を繋ぐ
君が応えてくれる
「裸眼で見る、ぼやっとした月も好きなんですよね」
「分かる気がする。僕には、いまクラゲに見えてる」
僕らは、ふたり揃って視力が良くない
君は普段、コンタクトをしている
僕は日常、裸眼だけど支障はない
いま、半径50cm以内の君以外は見えてないけど
それでいい、というか見る気がない
「目を細めて、だんだんピントが合う感じとか」
「たしかに」
矯正しなくても見えることに
憧れがないと言ったら嘘になる
でも、大切なものは自分の目で確かめたい
他愛ない会話のうちに、家に着いた
それぞれにやることをやる
僕は、君のシャツのアイロンを掛けるなどして、
君は、持ち帰った仕事をする
紅茶でも差し入れに行こうかと思ったけど
君がひとりで集中しているところを邪魔したくなくて
僕は僕のことに専念することにする
明日もあるから、あまり遅くならないように
時計を気にしながら声を掛けに行く
タイミングが良かったらしい
キリ良く仕事を切り上げて
そそくさと、お風呂へ旅立っていった
またしても、すっかり遅くなったことを反省する
明日こそは、早く寝かしつけたい
叶うだろうか、いや、叶えたい。
—下弦の月夜—
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