僕が眼鏡を掛けない理由(わけ)編

 僕が近視と診断されたのは、小学生で田舎暮らしをしていた頃…、だからもう20年以上前のことになる。眼鏡は、その頃からあまり好きではなかった。眼科に通っても快復することはなかった。段々と視力が落ちていく度、自分の身体ではない何かに頼らなければいけないことに、腹さえ立っていたかもしれない。あの治療に効果がなかったことは、随分と後になって知った。


コトコト コトコト


 お湯は都度、たっぷり沸かす。途中で足りなくなったら困るからだけど、本来1人分にはそれほど必要ない。心配性は、情けなくも、こんなところにさえ出てしまっている。「ふう」と、ひとつ、気の抜けた溜め息を、詩歩に拾われた。

「さっきから溜め息ばっかり」

「え、そんなに吐いてたかな」

「気づいてないだけで、さっきから15回くらい聞いてますう」

「別に嫌なことがあったわけでもないんだけどなあ」

そう言いながら理由を見渡してみても、どこにも見つからない。そこでまた、出てしまっていたらしい。

「ほらまた」

呆れているというより、すこし怒っている。


カランカラン


 ドア上のカウベルが鳴った。お客さんが来た合図だ。もちろん、ステンドグラス越しに、ぼんやり影が落ちるからわかるんだけど。

「いらっしゃいませ!」

といつも通りに詩歩が迎えてくれる。オーダーは、彼女が取る。それを僕が作る。違うことと言えば、その日そのひとに合わせた、一杯の淹れ方だ。

 カウンターの真ん中あたりに腰掛けた。これまた、いつもの席だ。常連さんには常連さんの好きな席がある。仮に、他のお客さんがそこにいるからといって、文句を言うこともない。当たり前かもしれないけれど、素敵なことだと思う。

『ブレンドをお願いします。あと、チーズケーキをひとつ』

「わかりました」

 お待ちください、とは言わないとふたりで決めた。待つことも含めて、大事な時間と空間であって欲しいから。オーダーはこの距離だから聞こえているけど、ちゃんと確かめる。丁寧に書き取られた字を見るのが好きだから。

 近いものは、はっきり見える。見えないものは、聴けばいい。


コトコト コトコト

ササーッ


 ドリップポットにお湯を移し替えて、90℃に調整する。お湯を掛けながら、豆と睨めっこして、体感で40秒ほど蒸らす。ゆっくり落としていく。

 僕がブレンドを淹れている間、詩歩は僕を伺いながらチーズケーキを用意している。もうかれこれ10年以上になるから、視線だけで十分伝わる。見るひとが見ると照れ臭くなるらしいけど、これはふたりの日常だ。


「お待たせしました。ブレンドとチーズケーキです」

『ありがとう』


 ブレンドは濃いめ。チーズケーキには、杏のジャムを薄く塗ってある。次のための準備を始めてから、ふと、声を掛けられた。

『マスター』

「うん?」

『マスターって、たまにすっごい目を細めてるときありますけど、眼鏡とかコンタクトとかしないんですか?』

 実は、よく聞かれる。その辺のスーパーで買い物をしているとき、屈みこんでプライスカードを見ているシーンを目撃されるから、仕方ないと言えば仕方がない。

「コーヒー淹れてると、眼鏡は曇るし、コンタクトは、目に入れるのが怖くてね。それに替えるのを忘れちゃいそうでさ」

『私、コンタクトですけど慣れましたよ』

 これもよく言われる。ひとは慣れていく生き物だから、僕もそうなれるのかもしれない。でも、敬遠しているわけでもない。

「僕はさ、この視力で良かったって思ってるんだよ」

『そうなんですか?』

「うん。確かに僕に見えるのなんて、ここからここまでの距離くらいだけど」

 と言いながら、身振り手振りで半径30cmくらいを表現する。

「大概のものは、多少ボヤけてても判別できてる。それに、大事なものと向き合うときは、ちゃんと見てますよって伝えるためにも、意識してそうしてるんだよ」

『マスターって、ロマンチストですね』

 と言って笑われるのも、もう何度目かのデジャヴ。けれど、カウンター越しに、彼女はこう続けた。


『自分の目で見たものをちゃんと信じられるのって、素敵なことじゃないですか?』


 してやられる瞬間というのは、突然来るからそうなのだ。隣で詩歩が微笑んでいる。ゆづきさん、一本取られましたねと言わんばかりに。

「何だか照れるなあ。まあ、でも、そうだなあ。そうあれるように、居たいと思ってるよ」

 そう返したあと、また穏やかな時間になっていく。この声のない時間に、気まずさは全くなかった。たった一杯分の時間なんて、本当に一瞬の出来事だろう。それでも、こころを動かされる。だから生きていられることだって、あると思う。

 新しい影が差し込む。僕の目には、やっぱりぼんやりとしか映らないけれど、いつも通りカウベルが鳴って、いつも通りに「いらっしゃいませ!」と聴こえてくる。

 

 こんな日常を愛している。


— 僕が眼鏡を掛けない理由(わけ)編 —

— chapter title  “ why not wear your glasses ” —

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