朝を解き放って
帰る場所がなかったから、一人の夜を生きて好んだ
その代わり、明けていく夜が大嫌いになった
ピントの合う半径30cmくらいが僕の世界で
だから、自分で気づかずに噛んだ唇から、滲む色さえ知らなかった
紅いはずの愛車を走らせる
ラジオを垂れ流しておく
他人の声はそれだけだ
多分、一生友達になることはないけれど
『こんばんは』と言われて
反射で返してしまう辺り
僕は、人間を嫌いにはなりきれなかったようだ
ハンドルは利き手
反対の手で手元を探って、ブラックコーヒーを飲む
こういうときのコーヒーは
煽って呑むお酒とそれほど意味は変わらない
些細な苛立ちを、アクセルを踏む右足に乗せる
コンマ遅れた加速に、余計に腹が立った
目的地は、どこかで失くしてきた
ずっと暗闇で、対向も後続も1台もいない
ヘッドライトだけが白く前を照らして
やっぱり暗闇であることだけを教えてくれる
長い登坂(とはん)がようやく終わりを迎えた頃
辺り一面が強烈な光に包まれた
奪われた視界の中で、必死にブレーキを踏む
何とか止まった車の鍵を開けて外へと這い出た先で
僕は言葉を失った
それは決して悪い意味じゃない
「ただいま」
君の姿が、海辺で朝日に照らされている
その表情は、僕の目にはっきりと映せなかったけれど
きっと微笑(わら)っているんだろうと思った
「おかえり」
なんとも酷い夢だった
聞こえないように溜息を吐いてから強く抱きしめる
「どうしたの?」
「…何でもない」
忘れかけていたものを、思い出せた気がした。
—朝を解き放って—
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