靴紐を結び直して編 さき

あの日も、たしか月の綺麗な夜だった。
いつもそんな日に、彼女は来る。今夜は晴れて満月だから、間違いないだろう。そう思っていたら、ドアが開いた。

チリンチリン

「いらっしゃい。ああ」
「こんばんは、マスター」
「こんばんは。ここ、どうぞ」

そう言って、カウンター席に座るように促す。この店に来る常連客の中でも、僕を“マスター”と呼ぶのは彼女くらいだ。普段は、名前で呼ばれることが多い。だから、そういう心づもりなんだと思っている。

「うーん…、よし。ティーラテにする」
「うん。少し待っててね」

コトコトコト

「はい、どうぞ」
「いただきます。うんー、あったまる」
「それは良かった。
 ああ、そうだ。今夜は満月だったね」
「そうだよ、だからマスターに会いに来たんだ」

改めて言われると、照れくさい気がしてしまう。ところで、今日もきっと話があるんだよね、と聴いてみる。

「うん、あるよ。なくても来るけどね」

さらっと言ってしまうあたり、やっぱり、不思議な子だと思う。

「何か分からないんだけど、靴紐が上手く結べないんだ。マスター、どうしてかなあ」
「難しいお題だね」

と言うと、お題じゃなくて悩みです、と真面目に返されてしまった。少し置いてから僕は話してみる。

「結ぶのって、そもそも大変だよね」
「うん」
「焦れば焦るほど絡まるし、きっとそれはどうしようもないんだと思う」
「うん」
「だけど、僕らはもう既に結び方を知ってるんだ」
「え?そうなの」
「うん、知ってるんだよ。誰かにいつか教えてもらってて、何度も自分でやって来たことだからさ。
 分からなくなったら、もう一度結んでもらったら良いんだよ。こんな風に」

そう言って僕は、靴紐を結び直すジェスチャーをする。目の前の彼女は難しい顔をしている。難題だから、仕方ない。ゆっくり、解いていくしかないのだ。

【続く】

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