澪標 下弦の月夜編
普段より帰りが遅い日や疲れていそうな日は
駅まで君を迎えに行くことにしている
いつ呼ばれてもいいように
もちろん準備はしてるけど
今夜は、後者だった
午後11時15分、時間通りに君と落ちあう
僕に振る手は、グーのまま開いてすらなかった
相当疲れているらしい
コンビニの横を今夜は通過する
歩き出してから、君がちらっと後ろを見た
想像はついていたけど、一応聴いておく
「どした?」
「気にしちゃいますよね」
「僕は、全然気にならないけど」
言いながら、本気と冗談の間で揺れている
恥じらいがないのは、僕だけだった
「心配なことがあるんだよね」
「なんですか?」
「これから先、君に長期連休あるじゃん
旅行に出て君が帰って来ない日、僕が発狂しないかどうか…」
「そこは大人なんですから、しっかりしてください」
君が呆れ笑いながら続ける
「貴方って、どれだけ私のこと好きなんですか」
「悪かったなぁ、好きだよっ…!」
いつも通りくらいで良いから、
旅先からの連絡は、あって欲しい
声が聞けないのは言うまでもなく寂しいし
言葉もないのは、さすがにつらすぎる
それに、こんなやりとりになるくらいには
僕は君のことを好きで好きでたまらない
お酒の力でも許されるなら
深夜の公園の中心で、愛してると叫んでやったっていい
「そういえば、最近車とぶつかりかけたなあ」
「えっ」
君が驚いた顔をする
「いや、スマホ見てて気づかなくてさ。運転手にすごく睨まれた」
笑いながら言った僕に、
「気をつけてください」
しっかり、君にたしなめられた
「ごめん、気をつけるよ」
うん、ちゃんと気をつけます、ハイ…
だんだん我が家が近づいてきて
君は、もうやだ疲れたを連呼し始めた
こうなると、しばらく止まらない
身体があることを面倒だと言い出すこともある
例に漏れず言い出したところで
僕はこんな話をしてみた
「身体がないとさ、何もできないんだよ。
身体があるから手も繋げるし、君のこと抱き締められる」
僕は思いきり腕を広げてみせる
「良いこと言いますね」
さっきと打って変わって褒められた
「今夜も月が綺麗ですねって言ったって、
耳がなかったら聴こえないしさ。
生きてるからできることだよ」
そう、生きてるからできることだ
口にしてから、改めてそう思う
君がいるから死ぬつもりなんてない
すこし前に、「家に帰れば貴方がいるから、毎日頑張れる」って
君が言ってくれたことを思い出した
それに甘えているのは、もしかしなくても僕の方だって自覚はある
でも、それでもいいやって思った
僕に君より大切なものなんて、ないんだから。
—澪標 下弦の月夜編—
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